shonblog’s diary

日々感じたこと。日記。思想。精神。宗教。自然と人。人間の構造をわかりにくい文章で探求していきます。

我を忘れた瞬間が、真の意味で我である。

 最も幸せな瞬間とはどんな瞬間か。ふと自分に問うてみた。それは恐らく何かを創っている時ではないか。幼い頃、よくプラモデルを作った。夢中になって夜も眠らなかった。幸せな瞬間とはそんな瞬間だと思う。何かに夢中になり我を忘れる。我を忘れた瞬間が真の意味で我であると感じる。

 大人になって色んな知識や経験は増えても、夢中になる瞬間は減っている。知識や経験そのものは幸福をもたらさない。生きるうえでの糧にはなるが。こうやって文章を書いていると、自分自身の中に潜り込むことができる。ふと周りの雑音が消える。世界が変わったかのように。そんな瞬間が幸せに感じる。いかに日常の世界が執着にまみれているかがわかる。

貨幣社会は人間精神の真の部分を麻痺させ、視界を雲で覆う。

 近頃、「お金」というものの概念が変容しつつある。日々、株取引に励み、現金資産を有価証券に交換している。現金はそのままでは増えないが、有価証券は増えていく。もちろんその逆で減ることもある。現金の場合は増えも減りもしない。

 さらにコロナ以降、世界的に金融緩和が進み、現金の量は増えている。それは現金の価値の低下を意味する。だから有価証券や仮想通貨などに資金は流れそれらが今暴騰している。

 現金は確かに素晴らしい。それがあれば欲しい物やサービスを買えたりできて、より人々の満足感を満たしてくれる。しかし、それ以上のものをもたらしてはくれない。

 一時的な安心感は得られるだろうが、すぐに現金残高と向き合い不安がる日々が待っている。そして、また明日からせっせと会社へと向かわなければならない。

 資本主義経済である以上、現金に目がくらむのも無理はない。現金こそ資本主義における神だから。しかし、それでは心のどこかにシコリが残る。本来の人間精神と現金は相容れない部分があるからだ。貨幣社会は人間精神の真の部分を麻痺させ、視界を雲で覆うクセがある。

 これからの社会にとっての最重要課題は、労働生産性や技術革新、競争力などではない。

個人の最奥に眠っている真の精神に光を当て、そこからすべてを始めなくてはならない。

決して、「お金」を求めるべきではない。本当のことを言えば、お金は存在しないから、雲を掴むような行為だからである。より個人の中に焦点を当て、そこに答えを見出さなければならない。個人が個人を僻み、足を引っ張り合い、劣等感に苛まれるのは、常に他人を軸に行動しているからだ。向き合うべきは自分自身であって他人ではない。人間は比較の生き物で、他人よりも上か下かで幸福の尺度が変わりがちだ。しかし、それは真の意味で幸福を表さない。恐らく、虚しさがどこかに残るだろう。なぜなら、自分自身の中に答えを見出してないから。

 もうそういうことはやめにしよう。目を閉じ深呼吸をしよう。見えてくるものがあるはずだ。

お金のために働くという虚しさ。

 「金持ち父さん、貧乏父さん」という本を読んで、自分の中で引っかかていたものが取れたような気がした。要するに、お金のために働きたくない、ということだ。

 社会人になってずっとこのことが気になっていた。仕事という得体のしれない行為。周りのほとんどがそうしているが、平日は時間通りに会社に行き、特別それがやりたいわけではないがやらざるをえず、土日になると羽を伸ばして遠くへ遊びに行って、好きなものをお金で買って、そして日曜日の夕方になると、また明日から仕事かと肩を落とす。このサイクルを永遠に続けている。この行為が、不思議でたまらなかった。社会がそうなってるからと言ってしまえばそれまでだが。それで終わらせてしまうのがあまりにも虚しかった。

 何をやるにしても付きまとう”お金”。たしかにお金は社会の重要な要素の一つであることは認める。でも、それを最優先に考えて行動することはあまりにも虚しい人生だ。もっと心の奥の直観は違うものを求めている気がずっとしている。それは言葉では言い表し難いものだが。人間である以上、みんなの心の中に生まれつき備わっているものだと信じている。決して”お金”ではない。ただ単に”お金”という雲に覆い隠されているだけだ。そのことを認めよう。

 それだけ”お金”は根深い概念であるという証拠でもある。しかし、それを乗り越えて、より深く、より大きな、価値あるものに気付くことができれば人生はより豊かなものになると確信している。そのためにはまず、お金のために働くことはやめて、自分のために働かなくてはならない。そして、本当の意味で豊かなものを自分の中に見い出さなければならない。

何もしないという”行動”がこの世で一番難しい。

 一つ歯車が狂えば、立て続けに崩れ落ちる。相場とはそういうものだ。また、いつでも心の状態と比例しているのが相場である。何をやっても裏目に出て、苛立ちが募り、さらに裏目に出るという負の連鎖からは逃れられない。そんな時は、どうすればいいのか。それは何もしないこと。だが、何もしないという”行動”がこの世で一番難しい。何もしていない裏では何かが起こっているため、損した気分になるし、後悔の念がより一層強まるからである。

 感情をコントロールできないものにとって相場とは地獄である。相場意外の私生活にも悪影響を及ぼす。相場は精神の修行の場であるともいえる。変に滝に打たれたり、座禅を組むよりも相場に向き合い、損をしても平常心でいるように鍛錬したほうが、悟りへの道は近い。

 損したとか特をしたとか、お金が増えたとかお金が減ったとかいうのはすべて、幻であり煩悩であるのだから。このことを常に踏まえて相場に向き合わなければならない。相場はある意味、”自然”である。人間は自然の一部であるのだから、人間の煩悩をすべて払拭し、自我を超えた先に自然は待っている。

泳ぎだしたほうがいいよ。そうしないと石のように沈んでしまう。

 2021年が始まった。年の初めは、目標や抱負をたてる人も多いだろう。僕も去年まではそうしていた。しかし、すぐに忘れてしまう。なんせ、昨夜のご飯のメニューも思い出せない始末なのだから当然だろう。だから今年に関しては、特別な目標などは掲げないことにした。

 強いて言えば、"ひたすら前進"あるのみ。去年は仕事を辞めたこともあって、立ち止まる時間がとても長かったように思う。そのおかげで、色んなことに気付くことができたし、会社員をやっていたらできなかったようなこともできたというメリットはあった。

 ボブ・ディランの歌詞の中にこのような一節がある。「泳ぎだしたほうがいいよ。そうしないと石のように沈んでしまう。」

 まさに去年はこういった感覚を味わった年でもあった。人は何もしないと麻痺して、何もできなくなってしまう。一歩前に足を進めることによって新たな景色を発見するものだろう。

 この情報化社会にあっては、スマホを覗けば新たな景色は無限に広がっている。我々の外側の世界は昔に比べ情報で溢れかえっている。しかし、思うことがある。

いくら外側の情報に目を向けても世界は広がらない。そこに内側の世界を覗く目を持っていなければ。外側の情報は断片的でそれ自体に意味はない。内側にこそ真の世界が広がっている。

様々な化学反応が起こるオアシスである。そこにこそ視点を向けなければならない。まだ発見されていないアイデアが広がっている。今年はひたすらにそこに目を向けていこう。

一羽の雀が落ちるのも神の摂理

 久しぶりに本を読んだ。近頃は、スマホやパソコンでネットニュースを見たり、YouTube用の動画を編集したりと何かと電子データばかりを目にする毎日だった。ネットに書かれている記事や知識は自分の知りたいことをピンポイントで得られるというメリットはあるが、体系的な知識という面ではデメリットである。情報が断片的で文脈に欠けている部分が多いからである。それに対して、本は、起承転結がはっきりしており様々な視点でテーマを語っているため体系的に学習することができる。物事は断片的にはわからないことがほとんどだから、前後の文脈と合わせてストーリーで学ぶことが深い理解へと繋がる、と個人的には思っている。

 今はシェイクスピアハムレットという劇作を読んだ。もう何回も読んでいるがまた読んだ。このシェイクスピアという人物が書く文章は正に魔法。巧みな言葉使いと全体の構成は独特で唯一無二といった感じがする。とにかく彼の作品を目にした瞬間、革命が起きる。それは莫大な情報量であるインターネットのどこにも書かれていない。今までは何者でもなかった人物を何者かにしてしまう魔法が彼の作品の中には現れている。自信がない人にはぜひ呼んでほしい。おそらく見る世界が変わる。今までは奥深くに隠れていた才能を呼び起こす力を持っている。

 

「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」

「簡潔こそが叡智の心臓」

「劇というものは、いわば、自然に向かって鏡をかかげ、善は善なるままに、悪はあくなるままに、その真の姿をえぐり出し、時代の様相を浮かびあがらせる」

「一羽の雀が落ちるのも神の摂理。来るべきものは、いま来なくとも、いずれは来る、いま来れば、あとには来ない、あとに来なければ、いま来るだけのこと、肝腎なのは覚悟だ。」

人ぞれぞれ行動の内容が異なるのはなぜだろう。ある人は分かれ道で右へ進み、ある人は左へ進む。

 人間は誰しも行動している。行動していない、何もしていない、ということも一種の行動である。生きることは同時に行動していることである。

 では、誰しも行動することはわかったが、人ぞれぞれ行動の内容が異なるのはなぜだろう。ある人は分かれ道で右へ進み、ある人は左へ進む。さらにその進むスピードがある人は早く、ある人は遅いのはなぜだろう。

 一見完全に無作為的にあるいは偶然的に起こっているようにみえてある種の法則が働いていると僕は考えている。

 現段階の考察では、大きく分けて3つの要素で説明できると思う。それは外部環境、内的意識、内的無意識である。この外部や内部といった概念は意識が働く人間にのみ存在する概念であることを説明しておく。自然には内部や外部のような二元的な考えはない、すべては”一つ”である。人は、脳内で様々な考えやイメージを文字通り”意識”する。この意識という材料を元に行動を選択する。これが基本的な人間の行動原理である。さらに深堀りをすると、行動の原点は意識の中にではなく、無意識にある。文字通り我々はそれそのものについてなんら意識することはないが、意識の内容は無意識が支配している。我々が意識している内容は無意識の内容のごく一部である。実は行動というのはこのような仕組みで働いていると僕は考える。

 よく言われる自由意志というのは、この意識という極めて限定的な領域の中で、飛び回っているに過ぎない。だから正式名称は”限定的自由意志”あるべきだ、と僕は考える。

 真の自由とは意識の中にはない。むしろ無意識にある。意識がなくなった時、そのとき自由となる。

 少し話はずれたが、人間の行動は意識が担っていると人間の頭で考えればそう解釈せざるをえないが、真の行動は、無意識が意識を誘導しているのであって、意識が出発点ではない、ということを強調したい。だから、分かれ道で、自分の選択(限定的自由意志)で、右に進んだのではなく、無意識(真の自由意志)から選択させられた、と言うべきである。

 そして、外部環境であるが、無意識という領域は二元的な世界では自然と同じで”一つ”である。外部というのは意識の中にでのみ存在する概念であるが、無意識においてはすべて一つなのである。すなわち一心同体であり、同じ規則性をもっている。だから我々人間は即自然なのである。あらゆる行動は自然の法則に従っているのである。

 少し長くなったが、まだまだ考察は道半ばであり、まとまっていないため引き続きこの研究を進めていきたい。考えがある程度まとまればこのブログに書きたいと思う。ここは、自分自身の考えを整理する場であるから。