shonblog’s diary

日々感じたこと。日記。思想。精神。宗教。自然と人。人間の構造をわかりにくい文章で探求していきます。

自分自身の心や精神からスタートしたものは、他人の心や精神を動かす力を持っている。このことが唯一の方程式である。

 この世の中に成功の方程式はない。こうすればうまくいくといったルールはない。だが、多くの人は、できるかどうかは別にしてこうすれば安全だとかこうすればある程度はうまくいくといった、何か型があると思っている。そして、いざ自分が何かを行おうとした時、その型からスタートしようとする。しかし、なかなかうまくいかない。

 それはシンプルに、うまくいくといった型なんて存在しないからである。この世の中にある多くのものは微妙なバランスで成り立っている。それはこの瞬間だからこそ栄えているとも言える。だからある瞬間にはうまくいった方法も時が経てばうまくいかないのである。

 そんな表面的なルールを探るよりもまずやらなければならないことは、己自身の胸のうちに問いかけることである。社会や事業においての成功の方程式は存在しないが、一つだけ全人類に適用できる方程式がある。それが誰にでも備わっている。心や精神である。

 自分自身の心や精神からスタートしたものは、他人の心や精神を動かす力を持っている。このことが唯一の方程式である。だから、表面的な知識に囚われて、いくら成功のレシピを実践してもうまくいかないのは、心や精神が欠け落ちているからだ。その商品やサービスを利用するのが、同じ人間である限りこの方程式は永遠に適用される。

 まず見るべきポイントは情報や知識でもなく、己の内側、己の精神である。そこにこそ真の方程式が存在している。

 

「初心者の心には多くの可能性があります。しかし専門家といわれる人の心には、それはほとんどありません。」

 「初心」という言葉が好きだ。人は、年を取っていくにつれて、色んな仕事をしたり色んな人に出会ったり、色んな場所へ行ったりしているうちに経験値や知識量が増えていく。知識が増えれば、世界が広がりまた、失敗をする確率も減るだろう。

 しかし、欠点もある。予め「これはこうなるだろう」という先入観が湧いてくる。これは前にも経験したからこうなるに違いない、とか。これが進歩に歯止めをかける。というのも人生においてあらゆる瞬間に同じものはないからだ。何ごともやってみるまではわからないのだ。

 だから常に初心を忘れてはいけない。一度学んだ知識も一旦は水に流して、次の日を迎えなければならない。禅の僧侶の言葉で、「コップ一杯に水を入れていては、新しい水は入らない」というものがあるが、正にこの気概である。常に我々は、白紙に向かって新しい絵を書く画家のようでなければならない。

 ただ誤解してほしくないことは、学んだことはすべて無駄である、ということではないということだ。もちろん学んだ知識は次に活かすためのものであるからわざわざ捨て去る必要はない。大事なのはその瞬間を新たな気持で曇りなく澄んだ目で過ごすことである。そういう心持ちで過ごせた時、新に価値のあった学びというのは、必要な瞬間に我々の意識の上に登ってくるものなのだ。始めからこれはこうだからという前提に物事を考えると、価値ある学びは奥深くに沈んだままである。

 「初心者の心には多くの可能性があります。しかし専門家といわれる人の心には、それはほとんどありません。」

 これは禅の僧侶で鈴木俊隆という方の言葉です。

天才と凡人を分けるたった一つの法則

 「日本騎兵の父」と称され陸軍大将の秋山真之という人のいい言葉を見つけた。

 

「明晰な目的樹立、狂いのない実施方法、そこまでは頭脳が考える。

 しかし、それを水火の中で実施するのは、頭脳ではない。性格である。

 平素、そういう性格をつくらねばならない。」

 

「海軍とはこう、艦隊はこう、作戦とはこう、という固定概念がついている。

 恐ろしいのは固定概念そのものではなく、固定概念がついていることも知らず

 平気で司令官や艦長室のやわらかいイスに座り込んでいることだ。」

 

「あらゆる戦術書を読み、万巻の戦史を読めば、諸原理、諸法則はおのずから

 引き出されてくる。

 みなが個々に自分の戦術をうちたてよ。

 戦術は借りものではいざという時に応用ができない。」

 

「人間の頭に上下などない。要点をつかむという能力と、

 不要不急のものは切り捨てるという大胆さだけが問題だ。」

 

天才と凡人の差でよく言われるのは、単純に頭がいいからと言うが、そうは思わない。

それなら凡人でもある程度の域まで達することができる。重要なのはその先である。

そこから先は、感性や意志の問題である。強い情熱や自分自身を信じる力。

凡人は未知のものに怯え、天才は未知のものに立ち向かう。

シェイクスピアの有名な言葉、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。」

まさにこれ、天才と凡人を分けるたった一つの法則は。

 

 

全ては「タイミング」なんだ。ここぞという時に矢を放つ。

 本日、株式投資をして以来、一日で最大の損失を出してしまった。記念すべき日だ。その数字の大きさに頭がおかしくなりそうだった。改めて自分の弱さ、未熟さを思いしらされた。このような相場においても利益を出している人も確実にいるわけで、同時に絶望感を味わった。

 自分の取引手法が失敗を繰り返すたびに見えてきた。確実に上がるという証拠を見ない限りエントリーせず、少しでも損が出ると怖くて逃げる。特にデイトレードにおいては。このような過ちを見ると、自分自身の幼少期を思い出す。小学校の6年間空手を習っていて、組手という種目で初めて大会に出た時のことだ。僕は怖がりでもちろん自信もなく試合に望んだ。開始早々、敵に向かって攻撃するのではなく、怖くてひたすら後ろに下がり続け、最後には場外になりポイントを相手に与えてしまった。その間、一切相手との接触はない。前代未聞の出来事だった。トレードにおいてもあの当時の自分と全く変わらないことをしているように思う。

常に恐怖心が勝り、攻めるというリスクを負わず、安全圏に逃げようとする。そんなことをしていては、勝てるはずがない。自らで負けを選んでいるようなものだ。現状自分のトレードはこうなっている。しかし、あの当時、空手自体辞めることなく続けていた。なぜかは自分でもわからないが、続けた。練習も一時期は休んでばかりで、周りの人たちにこっぴどく叱られたのを覚えている。それでも、徐々に練習に参加していき、黙々と練習に励むようになった。難しいことはせず、常に基本的な練習を続けた。すると、不思議と試合に勝てるようになっていた。ほんとになぜかはわからないが、勝手に体が動くようになり、勝てるという自信までも持つようになった。そして、最後の大会で優勝まで果たした。あれは今でも不思議な体験の一つだ。

 話は長くなったが、トレードに関しても同じだと思う。続けることが大事であり、さらに大事なのは「基本」である。僕の空手の技は誰にでもできる、基本的なものだった。特別なことは一切やらない。全ては「タイミング」なんだ。ここぞという時に矢を放つ。その、「ここぞ」をどれだけ見極めることができるか。それはたくさん失敗して続けていくうちに、意識的にも無意識的にも積み上げられていくものだと思う。そして常に頭を冷静に保ち感情的にならならい。それはより広くより深いものを見渡すために重要になってくるからだ。感情的になると、それは霧の中を車で走っているようなものでいつ事故ってもおかしくない。冷静になればすべては拓ける。

 今日のような失敗は僕にとって財産だ。成功の道を模索し続けよう。

 

すべての行為が自然とともに進んでいく。そこに迷いやためらいはない。

 「自分のすることを気にしているとき、二元的になっている」これは、禅マインドビギナーズマインドという本に書かれていたものだ。この本は、アップルの創業者スティーブ・ジョブズの愛読書としても知られている。

 自分自身も禅に関する本や考え方に興味があり、かれこれ10年近く追い求めてきた。今後も一生、禅には関わり続けるであろう。

 日頃、なにをしようか、どうしたらよいか、などと意識することが多い。それで始めた行為というのはたいてい中途半端な結果に陥ってしまう。しかし、そんなことも意識せず自然と行う行動は不思議と長続きする。これはまさに禅の真髄を表してる。人というのはとことん自然に従わなければならないのだ。従うと聞くと何かに服従させられている、上の立場と下の立場を分ける言葉に聞こえてしまうから、あえて言い直すならば、"調和"である。自然と溶け合う。その瞬間、人は人でなくなると同時に、たしかに人であるのだ。すべての行為が自然とともに進んでいく。そこに迷いやためらいはない。

 有名な話でジョブズはいつも鏡の前に立って、「今日が人生最後の日ならば今からやろうとしていることは本当にやりたことだろうか?」と問いかけていたらしい。これも禅の考え方からきている。禅とは今ここにあるのである。過去や未来の中にはない。一瞬一瞬の中に永遠を見出すことである。

 この記事を書くのにも禅が行き渡っていなかればならない。意識せずとも自然とキーが叩かれる。あとで読み返したとき、たしかにそこには自然の言語が反映されていることがわかる。

辛いときはまず空を見上げよう

 久しぶりに空を見上げた。普段の生活はパソコンやスマホを見たりと何かと下のほうを見下げがちだった。思いが行動に繋がるのか、行動が思いに繋がるのか。時々そんなことを考える。別にいい気分だから空を見上げたわけではない。なんとなく空を見上げてみた。人間ってのは自分自身のことなんて何もわかっちゃいないな。空を見上げた瞬間、心があの空のごとく広がり晴れやかになった。感動を覚えさえもする。こんなに簡単でコスパのいい気分転換法はないかもしれない。世界中どこにいても、どんなときにでもすぐ可能な行為だ。辛いときはまず空を見上げよう。空が答えを示してくれるはずだから。

意識は常にどこかしらに光を照らし続ける。

 一度すべてを破壊してみる。物理的な破壊ではく、精神的な破壊だ。我々人間というのは、常に何かに囚われている。過去のしがらみだったり、周りの人間環境だったり、メディアだったり、はたまた未来に対しての希望だったりと。そして我々は、これらの土台の上で日々思考を繰り返している。もちろん考えるためには知識が必要でその知識があるから色んな可能性を引き出すことはできる。しかし、それを繰り返してくうちにどんどん狭い穴蔵の中を掘り進んでいき、本来は地上の光を求めて出発したはずなのに、気づけば方向感を失い、暗い地下深くへと潜ってしまっている。しかもタチが悪いのは潜っている最中は、地下へと進んでいることに気付けないことだ。一旦引き返してスタート地点から始めてみるという発想はまるでない。しかし、人間とはこういう生き物なのだ。どうしても自分の視野や見える世界が”すべて”だと思ってしまう。”意識”というのはこういう性質なのだ。ある全体像を見る時、意識は部分にしか光を当てることができない。自動車のヘッドライトのようなもので360度周りを照らすことはできない。人間はそれによって見えたものでしか判断することはできない。見えないということは存在しないということだ。しかし、人によってある事象を観察した時に異なる答えがでるということをみんなは承知している。そのことから一人の人間の視点なんてごくごく限られたものであることがわかる。これによって世界というのは無限に味方があるといえる。

 だからこそ、今見えているものを一度破壊してしまってもいいんじゃないかと思う。それが今まで積み上げてきたものや信じてきたものであっても。それによって失う恐怖が芽生えるのは当然だが、人間の意識というのは終わらない。つまり意識は常にどこかしらに光を照らし続ける。まるで太陽の光のように。だから破壊してもまたすぐさま建設が始まる。この破壊と建設という仕組みはこの自然界が生んだ最大の発明だ。だからこそ今我々はここにいる。マクロな生物界的な破壊と建設にしても、ミクロの人間の思考にしても同じルールが適用される。つまり生きるというのは、常に破壊と建設を繰り返すことにほかならない。