"意味"付けの無意味さ。
生き方や表現の多様性は、同時にあらゆることに"意味"付けを強いている。
意味がないことを価値がないと誤って捉えてしまっている部分もある。
なぜそうなっているのか、
周りを見渡せば、様々な手法で自分自身を表現し、それでうまくいっている人も多い。
それらを見れば、当然自分自身と比べてしまい劣等感に苛まれてしまう。
「自分には才能も個性もない、おまけにやりたいことも特にない」といったふうにどんどん自己嫌悪に陥ってしまう。
他者を見れば、確かに"意味"ありげなことをやっているように思えて仕方ない。
と同時に意味のないことに影響力はない、だからなんの価値もない。という連想ゲームが働いてしまう。
しかし、これらの思考は時代の影響もある。SNSが発達して他者の生き方がはっきりと視覚化できるようになった。人間というものは、常に他者と自分を比べる生き物なのだから、そのように感じてしまうのも無理はない。だから何か意味があることをしなければと、一種の焦燥感に駆られてしまう。
でもそれらの思考はすべて外側に気持ちが向いている証拠でもある。誰かに証明して認められたい。誰かに褒められたいといったふうに。しかし、この結末はやはりどこか不満感が残るものだ。
なぜなら、本当の答えというものは、外側には転がっていなくて内側の、それも奥深くに眠っているものだから。それは、自分自身にひたすら問いかけてみないとわからない。
この情報化社会でこそ、外側の世界を見る目も大事だが、それ以上に内側で起こっていることにもっと目を光らせなければいけない。
真の価値や意味というものは、もうすでにすべての人の内側に宿っているもので、わざわざ遠くへ探しにいったり、無理やりこじつけたりする必要は全くない。
最後にゲーテの名言を、
「自分自身を信じてみるだけでいい。きっと生きる道が見えてくる。」