shonblog’s diary

日々感じたこと。日記。思想。精神。宗教。自然と人。人間の構造をわかりにくい文章で探求していきます。

人ぞれぞれ行動の内容が異なるのはなぜだろう。ある人は分かれ道で右へ進み、ある人は左へ進む。

 人間は誰しも行動している。行動していない、何もしていない、ということも一種の行動である。生きることは同時に行動していることである。

 では、誰しも行動することはわかったが、人ぞれぞれ行動の内容が異なるのはなぜだろう。ある人は分かれ道で右へ進み、ある人は左へ進む。さらにその進むスピードがある人は早く、ある人は遅いのはなぜだろう。

 一見完全に無作為的にあるいは偶然的に起こっているようにみえてある種の法則が働いていると僕は考えている。

 現段階の考察では、大きく分けて3つの要素で説明できると思う。それは外部環境、内的意識、内的無意識である。この外部や内部といった概念は意識が働く人間にのみ存在する概念であることを説明しておく。自然には内部や外部のような二元的な考えはない、すべては”一つ”である。人は、脳内で様々な考えやイメージを文字通り”意識”する。この意識という材料を元に行動を選択する。これが基本的な人間の行動原理である。さらに深堀りをすると、行動の原点は意識の中にではなく、無意識にある。文字通り我々はそれそのものについてなんら意識することはないが、意識の内容は無意識が支配している。我々が意識している内容は無意識の内容のごく一部である。実は行動というのはこのような仕組みで働いていると僕は考える。

 よく言われる自由意志というのは、この意識という極めて限定的な領域の中で、飛び回っているに過ぎない。だから正式名称は”限定的自由意志”あるべきだ、と僕は考える。

 真の自由とは意識の中にはない。むしろ無意識にある。意識がなくなった時、そのとき自由となる。

 少し話はずれたが、人間の行動は意識が担っていると人間の頭で考えればそう解釈せざるをえないが、真の行動は、無意識が意識を誘導しているのであって、意識が出発点ではない、ということを強調したい。だから、分かれ道で、自分の選択(限定的自由意志)で、右に進んだのではなく、無意識(真の自由意志)から選択させられた、と言うべきである。

 そして、外部環境であるが、無意識という領域は二元的な世界では自然と同じで”一つ”である。外部というのは意識の中にでのみ存在する概念であるが、無意識においてはすべて一つなのである。すなわち一心同体であり、同じ規則性をもっている。だから我々人間は即自然なのである。あらゆる行動は自然の法則に従っているのである。

 少し長くなったが、まだまだ考察は道半ばであり、まとまっていないため引き続きこの研究を進めていきたい。考えがある程度まとまればこのブログに書きたいと思う。ここは、自分自身の考えを整理する場であるから。