shonblog’s diary

日々感じたこと。日記。思想。精神。宗教。自然と人。人間の構造をわかりにくい文章で探求していきます。

改めて、今を生きるとは何かを問う。

 限りある人生を送っていることは理解している。そして、いつの日かこの生命も尽きることも理解している。そのせいだろうか、ここ数年、うまく時間を使わなけれいけない衝動に駆られて、変に時間を管理したり、小手先の時間効率テクニックを習得しようと無駄な努力を続けてきたような気がする。

 いくらタスク管理やスケジューリングに成功したとしても時間は増えないことに気がついた。むしろ時間の不足をより感じるようになった。常に焦燥感と不完全燃焼さを味わっているように思えて、とても充実しているような日々を送っているとは思えない。

 改めて、今を生きるとは何かを問う。結論から言うと、すべてを捨て去るということ。いつも何かをするときに、この時間を有効に使わねばとかもっと先の心配が頭をよぎったりして、その瞬間、不安や焦燥感で頭がいっぱいになっている。これを勇気を持って捨て去ろう。

人生とは時間を有効活用することが目的ではない。人生とは正に今この瞬間のこと。そこに時間は存在しえない。時間は思考の中にしか存在しない。人生とは思考の連続とも言えるかもしれないが、それがすべてではないということを再認識する必要がある。思考は現実をどうとでも歪めてしまう。歪んだものを現実と認識したいのであれば結構だが、私は真の現実を直視したい。そして、それはすべてを捨て去った時に、向こうからやってくるものであると確信している。すなわち受動的なものであって能動からは決して生まれない。生命の神秘は人間の小手先のエゴごときでは体得しえない。

 日々のタスクに追われている人間は仮定の人生ははっきりと見えているかもしれないが、それは幻想にすぎない。むしろ不安や焦燥感からの防衛本能みたいなものだ。より自らを開放し、すべてを捨て去る勇気ひとつあれば世界は向こうからやってくる。このことを自分自身に何万回も問いかけよう。これは自分自身のためというより、生命への感謝であり、感謝はエゴの逸脱である。生命はそれ自体ですでに完璧であり、連続した自然であり限界がない。エゴは常に限界が近いがそれを認めようとしないところに人々の苦悩がある。あっさりと限界を認めてすべてを捨て去ってはどうかということを言いたい。なぜなら生命は我々の地下深くに根付いているのだから、そっと身を委ねてしまえ。人生はそこからスタートするのだから。

                                                                                                                                    2023.1.1

2021年を振り返って。

 あと6時間ほどで2021年が終わる。湯船の中で今年を振り返ってみる。

 自分にとっては今まで生きた中で最も自己中心的に生きた年になった。やりたいことをやり、やりたくないことを極力やらなかった。日本を旅して、寝たい時に寝て、定職にも就かず家でやりたいことをやった。誰にも縛られずにコロナ禍もあって、変に人と会わずに済んだから気疲れもすることもなかった。

 この自由奔放に生きたツケがいつか災いとなって自分に降りかかってくるかもしれないが、仕方ない。過ぎたことだから。

 普段真剣に過去なんて振り返らないから、いざ振り返ってみると、とても懐かしさを感じる。もう一度あの瞬間に返ってみたい気もするが、前に進みたい気もする。でもどちらかと言うと、過去を振り返るのは楽で、前を向くとまさに前途多難。色んな心配事や不安が散らかっている。

 不安は行動の欠如なんていうけど、そうは思わない。そもそも行動もある程度運命の仕業だと思うから。つまり自分自身では選択できない謎の力に導かれている。あたかも不安は自己努力によって取り除くことができるかのような言い方だが、どちらかと言えば自然発生的なもので、たかが人間の意思ではどうにもならない。不安なんてあって当たり前というのが僕の意見。

 この時期になると新年の抱負や目標を考え出す人もいると思うが、僕はそんなものは考えない。風の便りに身を委ねたい。そのほうが面白いから。人間の思考は生き方を狭める。もっと直観的に生きれば人生は色んな意味で豊かになると思う。

 あるおばあちゃんの話で、その人は若い時に旦那さんを失った。その理由が自殺だった。もっとも身近で頼りにしている人をそのような理由で失うなんて、想像を絶する思いだったろうと思う。話を続けていると、そのおばあちゃんから意外な言葉が返ってきた。

「あたしの人生はそれからがエキサイティングだった」

 この言葉が意味することは深い。人生は何が起きるかわからない。人の考えや想像を超えた領域ですべてが決まっていく。だったらとことん風に流され、移りゆく景色を享受していこう。

 おばあちゃんの話を聞いてそう思った。

こんなことを考えてると反省だななんだのどうでもいい。ただ今生きていることが不思議に思えてきた。やはり瞬間には勝てないな。

生きるためのレシピなんてない

「生きるためのレシピなんてない」

ミスチルの名曲"終わりなき旅"のワンフレーズ。

この意味を深く考えると面白い。人間というものは見えたものだけを材料に物事を考える癖がある。そして、その見えたものがこの世の基礎をなして現実的だと捉える。

例えば、「色」。我々の目には、様々な色が見える。赤、緑、青、黄、白、、、

しかし、色を感知するセンサーは、赤、青、緑の3色しかない。つまりこの3色以外の色を感知できるはずがないのだ。それでも、我々にはどう見ても黄色は黄色に見える。それはなぜか、それらの3色センサーを用いて脳が黄色を作り出しているからだ。

何が言いたいかと言うと、果たして今我々に見えているものは現実で本当にそこに存在しているのかということ。それがなかなか怪しいと思うのである。

仮に自分が黄色に見えているものを他人が見て、同じ黄色という答えが返ってこなくてもなんら不思議なことではないのだ。

だから自分と他人が違う意見や価値観であることはごくごく当たり前なことである。

そうすると、自ずと生き方も変わってくるはずだ。

それなのに、変に周りを見渡して他人と比較して、歩調を合わせようとしたり、劣っているように感じたりすることは、そもそもナンセンスなのだ。違っていて当たり前で比較に意味はないのだ。

冒頭の「生きるためのレシピなんてない」が真理なのである。

そのことを踏まえて、改めて生きると、生きることの本質が見えてくるはずだ。

人それぞれ生き方は違い、その表現方法も違う。人と違うことを気にする必要はない。

しかし、一つだけ共通する部分がある。

それが「生きる」こと。それは目には見えない部分で人間であれば誰しも持っている。

目に見えるものというのはすべて「生きることの副産物」。それは人によって変わってくる。

ある人は絵を書いたり、ある人は仕事に打ち込んだりと。僕の場合、それが今こうして書いていること。いわゆるそこに個性が表れる。

突き詰めると、みんな違うようなことをしているが、実はみんな同じことをしていて、それはみんな「生きる」ことをしているということ。

言葉遊びに聞こえるかもしれないが、この情報が錯綜して、一人ひとりの生き方や表現、あらゆるものが可視化されつつある時代で、生きることよりもレシピの話ばかりが可視化され自分自身を見失っている人が多いのが事実である。

そのような中で、人間構造の根本は変わっていないということを伝えたい。

だからシンプルに「生きる」ことにフォーカスすることをおすすめしたい。

"意味"付けの無意味さ。

 生き方や表現の多様性は、同時にあらゆることに"意味"付けを強いている。

意味がないことを価値がないと誤って捉えてしまっている部分もある。

なぜそうなっているのか、

周りを見渡せば、様々な手法で自分自身を表現し、それでうまくいっている人も多い。

それらを見れば、当然自分自身と比べてしまい劣等感に苛まれてしまう。

「自分には才能も個性もない、おまけにやりたいことも特にない」といったふうにどんどん自己嫌悪に陥ってしまう。

他者を見れば、確かに"意味"ありげなことをやっているように思えて仕方ない。

と同時に意味のないことに影響力はない、だからなんの価値もない。という連想ゲームが働いてしまう。

 しかし、これらの思考は時代の影響もある。SNSが発達して他者の生き方がはっきりと視覚化できるようになった。人間というものは、常に他者と自分を比べる生き物なのだから、そのように感じてしまうのも無理はない。だから何か意味があることをしなければと、一種の焦燥感に駆られてしまう。

 でもそれらの思考はすべて外側に気持ちが向いている証拠でもある。誰かに証明して認められたい。誰かに褒められたいといったふうに。しかし、この結末はやはりどこか不満感が残るものだ。

 なぜなら、本当の答えというものは、外側には転がっていなくて内側の、それも奥深くに眠っているものだから。それは、自分自身にひたすら問いかけてみないとわからない。

この情報化社会でこそ、外側の世界を見る目も大事だが、それ以上に内側で起こっていることにもっと目を光らせなければいけない。

 真の価値や意味というものは、もうすでにすべての人の内側に宿っているもので、わざわざ遠くへ探しにいったり、無理やりこじつけたりする必要は全くない。

 

最後にゲーテの名言を、

「自分自身を信じてみるだけでいい。きっと生きる道が見えてくる。」

人生はボーナスステージ

 人が生きていれば、楽しいことばかりではない。時に不安や悲しみといったネガティブな状況だってある。常にそういう気分を味わっているという人も多いだろう。

 しかし、そういった人たちに少し考え方の幅を広げてみることをアドバイスしたい。

 一般的には、楽しい=ポジティブ=プラス。悲しい=ネガティブ=マイナス。みたいに取られることが多いが、ここの悲しいという側面を、"プラス"と捉えてみてはどうか。

 そんなに簡単なことではないことはわかっているが、振り返れば、どんなにネガティブに思えることだって、今の自分があるためには不可欠な経験であって結果的にはプラスになっているはず。あとでどんなに後悔して戻ってやり直したいと思ってもそれらは避けられない運命であり、その人にとっては不可欠な経験。

 思わぬことが起こるのが人生。そして起こったことは運命でありきっと正しい。それが頭で考えてどんなに間違っているように思えることでも。

 どうか人生を減点方式ではなく、加点方式で捉えてほしい。物事にはいろんな側面がある。どんなことが起こっても何かしらの栄養になる。そもそも生まれてきた瞬間にすでに"勝ち組"である。失うものなんて何もない。人生はボーナスステージであるから、すべての出来事はプラスの作用を持っている。

株式市場と家庭菜園は似ている。

 日々、株の値動きや全体のマーケットを観察していると、あることに気づいた。これは植物に似ているなと。普段、農業をやりながら株の取引をしていて、一見まったく関係性がなさそうに見えるが、そこに大きな共通点を見出した。植物を栽培することと、株取引で利益を得ることは似ている。

 植物栽培に必要なものは、ざっくり、種、土、水、光である。土の中に種を撒いて、水をあげればそのうち芽が出て葉っぱがなり、光を利用してどんどん成長して、最終的には花を咲かせ、実をならせる。

 これを株式市場取引に例えると、まず株式市場という土壌があり、そこにはたくさんの企業(種)があり、それぞれ良い種もあれば悪い種もあり、芽が出るスピードも違う。その中から良い種ほど最終的には立派な実を収穫できるとの期待から、投資家が資金(水)を与える。そうのようにして時価総額はどんどん成長し、やがて花開き立派な実がなる。そのタイミングで投資家は収穫(利益確定)する。

 こんな形で株式取引と植物栽培には深い関係があり、株式取引は人間が作り出したといえ、その源には自然の摂理が働いている。どれだけ特殊なものでも、普遍の摂理が働いているという証拠である。

 土壌にも様々あり、株式、債権、仮想通貨など、それぞれ栄養成分や特徴が異なる。

 さらに植物栽培から株取引の仕方を学ぶのであれば、まず個別銘柄(種)の選定がとても重要であること。悪い種を選んでしまっては、よい実は得られない。よい実を実らせたいのであれば、良い種を選定しなければならない。

 次に、利益確定(収穫)の仕方で言えば、青いうちに収穫してはいけない。しっかりと花開き実が熟した時に収穫しなければ、美味しくないからだ。これは、天気によって植物は元気な時もあればそうでない時もある。天気がいつも晴れていることはないから。株価の上げ下げも同じく。少し下がったからといって、その種が駄目になったわけではない。

 最後に、これらの共通点から大事なことは、日々の観察である。日々天候は変わる。それに対して、今日の植物(個別銘柄)の調子はどうかなと。やってはいけないことは、勝手に決めつけること。そもそも植物や自然の摂理は人智の及ばない範囲にまで広がっているから、人間ごときの思考ですべてを捉えることはできないから、いつも謙虚でなければならない。

世の中はどんどん豊かになっているが、心はそうはなっていない所以はここにある。

 今我々が生きている時代は手段に溢れ、少し手を伸ばせばなんでも手に入る時代だ。選択肢が多く、その気になればなんでもできる世の中になっている。しかし、それと比例して、人々の心の中も豊かになっているだろうか? 僕はそこに疑問を感じる。情報革命により、今までは知りようもないものまで、何でも情報として知ってしまう。知らないほうが幸せだってこともある。

 人間は感情と理性からなるとても複雑な動物であるから、常に矛盾とぶつかり合う。人は情報を知覚した瞬間にまず、感情を意識する。感情は常に”正直”であるからここに矛盾はない。そして、その後に理性によって咀嚼する。この理性ってやつが”ひねくれ者”である。理性は人と人の間で生まれる。感情は個人の奥深くで生まれる。理性も感情を汲み取るが、100%コピーするわけではない。外に表現されるときそれは、捻じ曲げられ不完全な状態になってしまう。それは、感情は無限であり、表現は有限であるからである。

 人と人とのコミュニュケーションの不都合はこういった連鎖の中で生まれる。感情はいついかなる時でも真実であり、あまりにも広大であり、それを有限の理性で表現しようとすると、どうしても不十分になるからである。だからそれが相手に違った形の印象を与えてしまう。

 近頃のSNSなどでの誹謗中傷や社会の混乱はこうした人間の性であるがゆえに必然的に起こっているのであり、今後も起こり続ける。ではどうすべきか?それは、まずはこのことを受け入れることである。

 世の中はどんどん豊かになっているが、心はそうはなっていない所以はここにある。いくら表現の方法や手段が増えても、人間の精神の構造を理解し受け入れていなければ豊かになることは決してありえない。むしろ逆効果で人々はどんどん貧しくなり、社会はどんどん混乱する。

 だから今後重要なのは、優れた技術でも便利な道具でも夢でもなく、自分自身の心の構造を理解しようとする姿勢なのかもしれない。常に忙しい現代人はこれがとても難しい。常に頭の中が欲でいっぱいで、平安の場所はどこにもないからである。心を知ろうと思ったらとことん頭の空っぽにしなければならない。その時、どれだけ自分の心の中が豊かであるかを知る。