shonblog’s diary

日々感じたこと。日記。思想。精神。宗教。自然と人。人間の構造をわかりにくい文章で探求していきます。

貨幣社会は人間精神の真の部分を麻痺させ、視界を雲で覆う。

 近頃、「お金」というものの概念が変容しつつある。日々、株取引に励み、現金資産を有価証券に交換している。現金はそのままでは増えないが、有価証券は増えていく。もちろんその逆で減ることもある。現金の場合は増えも減りもしない。

 さらにコロナ以降、世界的に金融緩和が進み、現金の量は増えている。それは現金の価値の低下を意味する。だから有価証券や仮想通貨などに資金は流れそれらが今暴騰している。

 現金は確かに素晴らしい。それがあれば欲しい物やサービスを買えたりできて、より人々の満足感を満たしてくれる。しかし、それ以上のものをもたらしてはくれない。

 一時的な安心感は得られるだろうが、すぐに現金残高と向き合い不安がる日々が待っている。そして、また明日からせっせと会社へと向かわなければならない。

 資本主義経済である以上、現金に目がくらむのも無理はない。現金こそ資本主義における神だから。しかし、それでは心のどこかにシコリが残る。本来の人間精神と現金は相容れない部分があるからだ。貨幣社会は人間精神の真の部分を麻痺させ、視界を雲で覆うクセがある。

 これからの社会にとっての最重要課題は、労働生産性や技術革新、競争力などではない。

個人の最奥に眠っている真の精神に光を当て、そこからすべてを始めなくてはならない。

決して、「お金」を求めるべきではない。本当のことを言えば、お金は存在しないから、雲を掴むような行為だからである。より個人の中に焦点を当て、そこに答えを見出さなければならない。個人が個人を僻み、足を引っ張り合い、劣等感に苛まれるのは、常に他人を軸に行動しているからだ。向き合うべきは自分自身であって他人ではない。人間は比較の生き物で、他人よりも上か下かで幸福の尺度が変わりがちだ。しかし、それは真の意味で幸福を表さない。恐らく、虚しさがどこかに残るだろう。なぜなら、自分自身の中に答えを見出してないから。

 もうそういうことはやめにしよう。目を閉じ深呼吸をしよう。見えてくるものがあるはずだ。