shonblog’s diary

日々感じたこと。日記。思想。精神。宗教。自然と人。人間の構造をわかりにくい文章で探求していきます。

素晴らしい作品は時空を超越する、時間という概念を無視する。

 梅雨時の過ごし方は、家で映画鑑賞に限る(偏見)。僕は、一度見た映画を何度も見るのが好きだ。今日は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」という映画を見た。もうこれで1000回目くらいになる。この映画は3シリーズあるが、その3作目だ。デロリアンというタイムトラベル機能を有したかっこいい車に乗ってあっちこっちタイムトラベルするという映画だ。大事なのことは”なぜ”タイムトラベルするかだが、その解釈はこの映画を見た各人による。時間には、「現在、過去、未来」という概念がとりあえずある。したがって、選択肢は3つだ。過去に戻るか、未来へ行くか、そのまま現在に留まるか。なにか自分の過ちを取り戻しに過去へ行く者、自分の将来の姿をいち早く知りたくて未来へ行く者、そして、そのどちらも希望せず、現状に満足し現在に留まる者。誰もが一度は考えたことがあるのではないかと思う。しかし、当然過去や未来に飛べるタイムマシーンは、2020年現在発明されていないため物理的に不可能である。しかし、映画のいいところはそれをいとも簡単に可能にすることだ。この映画では誰もが想像したことがあるタイムトラベルを通して、何かを表現している。

 と、今日のブログでは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」論を語りたいわけではない。この映画を見た後、ふと、”そもそもの映画の起源とはなんだろう”と思った。何事にも始まりがあるはずだ。だとしたらなぜ映画というものを始めたのだろう、そういった疑問が湧いてきて簡単に調べてみた。

 人類史上最初の映画は、1895年にフランスで生まれたらしい。「工場の出口」という題名で、作者は、リュミエールという人らしい。この映画は、労働者たちがリュミエールの工場から出てくる様子のみを撮影した、音声なしのたった46秒の映画だ。というよりは記録映像に近い。実際に僕もその映像を見てみた。工場の門が開き、一斉に男女入り混じった労働者が歩いて出てくる。中には自転車に乗った者や犬を連れて出てくる者がいた。カメラ目線の者はいない。なんだろう、46秒しかなくて、ただ人が移動してるだけなのに感動する。感動とは心が動くことだが、この映像はとても心動かされた。125年前なのに当時の空気感が伝わってくる。音声はないが、声が聞こえてくる。”なぜ”映画というものを作ろうとしたかが自分なりにわかった。映像を通して、表現したいなにかがあるからだ。映像は人の心を動かす力がある。それをリュミエールは感じていたのではないか。

 映像は、現在を切り取る行為であるが、その瞬間、現在だった映像は過去になる。事実この映像は125年前の過去だ。昨日撮影した映像だとしても過去は過去だ。しかし、こう考えてみよう。映像から見た僕らは未来だ。「工場の出口」という作品を125年後の未来人である我々が目にしている。その当時の息吹を我々が感じることができているから見るという行為が成立している、そして現に心を動かしている。僕はこれを未来と呼びたい。もっと言うのであれば、時間軸などまったく関係のない”永遠”。素晴らしい作品は時空を超越する、時間という概念を無視する。過去、現在、未来を自由に飛び回る。少し哲学的で複雑な物言いになって申し訳ないが。そんなことを思った。この話が時空をテーマにした「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と被ったことはたまたまです。